こんにちはポケット予備校です。
今回は東大の2018年日本史の問題を解いて解説していきたいと思います。
東大日本史概観
まず最初に前提知識として東大の社会は日本史、世界史、地理の中から2教科を選び150分以内に解くという内容のものです。150分という時間は長いように感じる人もいるかもしれませんが合計で1500〜2000字を試験という極限の環境の中で時間内に解くことは非常に困難です。
そもそも東大の文系を他の国立、私大と差異化しているのは社会2科目という壁なのです。解くだけでなく膨大な知識が求められるからです。
東大日本史の詳しい解説はすでにあるのでそちらを見ていただければと思います。
ここでは私がどのような戦略で解いたのかをざっと説明することにとどめることにします。
私は東大2次では日本史、世界史のペアで臨みました。時間配分は日本史を60分で世界史を90分かけて解くというものでした。この時間配分は単純に大論述があり、時間がかかるというのがありました。60分は目安の時間で理想は50分強最悪でも70分前には終わらせて世界史にいかなければならないという戦略を立てました。
この戦略はどの科目をとるか、また問題との相性もあるので模倣する必要はありませんが過去問を数年やったのちには決めるようにしましょう。時間に関する対策は絶対に立てましょう。立てないで試験に臨むのは非常に危険です。
時間対策を進めるときに重要なのは二つの科目を150分という時間内で解くことです。分けて解くことも一概に悪くはありませんが少なくとも数年ぶんは通しでやって見ましょう。
2018東大日本史
第一問
それでは早速問題の解説を始めていきたいと思います。
第一問の問題文です。
中国の都城にならって営まれた日本古代の宮都は,藤原京(694~710年)にはじまるとされる。それまでの大王の王宮のあり方と比べて,藤原京ではどのような変化が起きたのか。律令制の確立過程における藤原京の歴史的意義にふれながら,解答用紙(イ)の欄に6行以内で説明しなさい。なお,解答には下に示した語句を一度は用い,使用した語句には必ず下線を引きなさい。
官僚制 条坊制 大王宮 大極殿
ここで問われているのは藤原京とそれ以前の王宮の違いです。
まずここで注目しなければならないのはそれまでの王宮の特徴です。それまでの王宮は大王が変わるごとに移転されていました。そこでは中央有力豪族が協議して政務が執り行われていた。これは教科書に書かれていることではありませんが朝廷の様々な職務は有力豪族の邸宅で行われていました。これらの仕事を担っていたのが伴造ら地方豪族であることを考えれば想像しやすいのではないかと思います。
つまりそれまでの王宮とは大王の邸宅であり政務の場ではなかったのです。それ以後の日本史で考える朝廷とは呼べないものであったのがわかると思います。大化の改新では朝堂院や官庁も創設されました。このように、徐々に王宮の形は変容していったもののこれらも真の意味での都と呼ぶことができるものではありませんでした。それは一重に次々と都が移転されたためです。
では藤原京はどのようなものであったのか?
問題文にあるとおり藤原京には中国に倣って都城制が採用された宮都です。天皇が住む内裏(それまでの邸宅)を中心として宮城が建設されました。政務、儀式が執り行われる朝堂院が建設されるとともに太極殿も建設されました。
もう一つ重要な変化として官庁が集中して作られたことです。さらに宮城の周りには京が建設され市が開かれ寺が建立されるとともに豪族は集住を求められたのです。
ここからはこれらの意義について考えていきます。
荘厳な都が作られ天皇の権威が誇示されるとともに職務が豪族のもとで分担して行われるものではなく天皇のもとで職務を努めていく体制に変わった。これらのことを通じて豪族の住居と職務が分離され官僚制が進んだ。王族、豪族は位階に応じて職務を与えられ官庁に「出仕」する立場となったのである。
最後にもう一つ大きな変化として体裁としては恒久的な都として作られたということである。その後遷都されることにはなるが藤原京は持統天皇から文武天皇まで三代にわたって継承されたところもそれまでの王宮とは大きく違うところである。
藤原京の歴史的意義とは律令制の確立、つまり氏族制から官僚制への移行を促進するという意義を持っていた。表にしてみるち次の通りである。
藤原京 | それ以前の大王宮 |
官庁集中 | 職務分散 |
政務の場 | 天皇の住居 |
恒久的 | 代替わり |
官僚制 | 氏族制 |
<解答例>
それまでの大王宮は代替わりごとに遷都された上に、職務は中央有力豪族、王族の邸宅で分散して行われた。一方で藤原京は天皇の住む内裏の他に儀式、政務用の太極殿、朝堂院や、官庁が集中して作られると共に、宮の周囲に条坊制に基づく京を設け王族、豪族を集住させた。同時に藤原京は三代の天皇の都とされ、氏族制から官僚制への移行を促進する意義を持った。(167文字)
第二問
次の⑴~⑸の文章を読んで,下記の設問A・Bに答えなさい。
⑴ 『建武式目』第6条は,治安の悪化による土倉の荒廃を問題視し,人々が安心して暮らせるようにするためには,それらの再興が急務であるとうたっている。
⑵ 室町幕府は,南北朝合体の翌年である1393年に土倉役・酒屋役の恒常的な課税を開始した。土倉役は質物数を,酒屋役は酒壺数を基準に賦課され,幕府の年中行事費用のうち年間6000貫文がここから支出された。
⑶ 正長・嘉吉の土一揆は,土倉に預けた質物を奪い返したり,借用証書を焼くなどの実力行使におよんだ。嘉吉の土一揆は,それに加え,室町幕府に対して徳政令の発布も求めた。
⑷ 室町幕府は,1441年,嘉吉の土一揆の要求をうけて徳政令を発布したが,この徳政令は幕府に深刻な財政難をもたらした。
⑸ 室町幕府は,1455年の賀茂祭の費用を「去年冬徳政十分の一,諸人進上分」によってまかなった。
設問
A 室町幕府の財政にはどのような特徴があるか。その所在地との関係に注目して2行以内で述べなさい。
B 徳政令の発布が室町幕府に深刻な財政難をもたらしたのはなぜか。また,それを打開するために,幕府はどのような方策をとったか。あわせて3行以内で述べなさい。
A:ポイントは室町幕府の財政状況です。答えるときには所在地との関連にも言及する必要があります。
この問題に答えるためには室町幕府の収入源を知る必要があります。室町幕府には御所領が存在していたがこれらは室町幕府にとってそれほど重要ではなかった。一方で流通経済に対して多くの税を貸していた。資料にある土倉役、酒屋役の他にも京都五山、関所における関銭、港湾における津料を貸していた。
ここで考えなければならないのは室町幕府の財政の特徴が問われているということである。つまり、室町幕府がそれ以前の幕府すなわち鎌倉幕府と異なるところに着目して述べなければならないということである。つまり、問題文を読んだ時点で御所領は草案からすでに外していなければならない。
また資料からも読み取ることができる。資料5にあるように幕府は徳政令を発令したことで深刻な財政難に陥ったのであるから徳政令によって損をした相手から幕府はお金を多数受け取っていたことがわかる。
さらに資料2にあるように土倉役、酒屋役から行事にお金を費やしたことがわかる。6000貫がどれほどの価値を持つかを知る必要はないがここからどのような意図があるかを推察することは必須である。
これらのことから室町幕府は土倉役、酒屋役、津料などを財政基盤として下いたことがわかる。しかし、これらのことを単に書くだけでは文字数も足りず、さらに高得点を狙うこともできない。ここで必要なのはこれらの課税はどのような経済を対象としているかを一般化する力である。これは東大日本史を説いていく上で必須の力と言える。
ではこの経済はどのような経済だということができるだろうか?
答えは流通経済である。言われてみれば納得すると思うがこれを試験時間中に導くことの難しさを考えながら解いて欲しい。
最後に所在地の京都について考える必要がある。江戸時代には朝廷が存在するだけの場所となったが室町時代においては人が集まる場所あり商工業が最も発達している地域であった。
これらのことを踏まえて解説する。
<解答例>
A商工業が発達した京都に所在したため、高利貸しの土倉、酒屋を保護して営業税を課すなど流通経済への課税を財政基盤とした。(58文字)
B:徳政令によって幕府が財政難に陥ったのはなぜか、そして幕府はどのようにして財政難に対する対策を講じたかである。
徳政令によってでた影響を考えるためには徳政令がどのようなものであるかを知る必要がある。一般に徳政令とは債務の破棄を認める法令である。資料3にあるように土一揆は幕府に徳政令を求める以外にも武力で証文をやく私徳政を行っているのである。つまりこの徳政令の要求は自分たちの一揆の正当性のために求めたものと言える。
ここで幕府が徳政令を出せば証文の廃棄は追認され土倉、酒屋の売り上げは減少するため幕府の歳入も減ることとなる。
幕府はこれに対して資料5にあるような法令を発令した。「去年冬徳政十分の一,諸人進上分」とある。つまり債務額、債権額の10分の1を手数料として納めさせ財政させた。手数料を払えば権利を認めるという形にしたのである。これが分一銭である。
<解答例>
徳政令によって債権を失った土倉や酒屋は打撃を受けた。これらへの課税を財政基盤としていた幕府も財政難に陥ったため徳政令発布に際して分一銭を手数料として取り収入を確保した。(86文字)
第三問
1825年,江戸幕府は異国船打払令(無二念打払令)を出した。この前後の出来事に関して述べた,次の⑴~⑸の文章を読んで,下記の設問A・Bに答えなさい。
⑴ 1823年,水戸藩領の漁師らは,太平洋岸の沖合でイギリスの捕鯨船に遭遇した。彼らは,その際に密かに交易をおこなったとの嫌疑を受け,水戸藩の役人により処罰された。
⑵ 1824年,イギリス捕鯨船の乗組員が,常陸の大津浜に上陸した。幕府および水戸藩は,この事件への対応に追われた。
⑶ この異国船打払令を将軍が裁可するにあたり,幕府老中は,近海に出没する異国の漁船については,格別の防備は不要であるとの見解を,将軍に説明していた。
⑷ 異国船打払令と同時に,幕府は関連する法令も出した。それは,海上で廻船や漁船が異国の船と「親しみ候」事態について,あらためて厳禁する趣旨のものであった。
⑸ 1810年から会津藩に課されていた江戸湾の防備は1820年に免除され,同じく白河藩による防備は1823年に免除された。以後,江戸湾の防備は,浦賀奉行および房総代官配下の役人が担当する体制に縮小され,1825年以後になっても拡充されることがなかった。
設問
A 異国船打払いを命じる法令を出したにもかかわらず,⑸のように沿岸防備を強化しなかった幕府の姿勢は,異国船に対するどのような認識にもとづいたものか。2行以内で説明しなさい。
B 異国船打払令と同時に⑷の法令も出されたことから,幕府の政策にはどのような意図があったと考えられるか。3行以内で述べなさい。
A:ここで問われているは幕府が異国船に対してどのような認識を持っていたかである。これは資料の中に答えが書いてある。資料に出てくる船は全て漁船か捕鯨船であり軍艦ではない。また資料5からわかるように幕府は対策を講じることなく逆対策を縮小させている。このことから幕府は異国船を漁船として捉えており脅威とは捉えていないことがわかる。ただ問われているのは幕府の認識なので沿岸防備の強化をしなかった理由をかく必要はない。
<解答例>
A 近海に出没している船は捕鯨船などの漁船であり、武装されたものではないため軍事的脅威にはなり得ないと認識していた。(56文字)
B:説明しなければならないのはこの法案に幕府のどのような意図が込められていたのか、また異国船打払令と同時に出されていることを踏まえた上で述べる必要がある。
資料3にあるようにこの法案で改めて海上での親しみ候が厳禁されたとある。ここからわかることはすでに厳禁する法令が発令されており、それを破って行っていたものがいるということである。
資料2にあるように漁船が異国の船と親しみ候をした嫌疑をかけられたとある。事実かどうかは書かれていないがその後水戸藩が対応に追われたことも加えて書いてある。この件では異国の人と日本人が接触してしまったことが問題であると考えられる。
つまりここで重要なのは異国人と接触することが何故看過出来ない問題であるかである。それは当時の日本が鎖国体制を維持していたからである。では何故鎖国体制を敷いたのか?それはキリスト教の流布を恐れたからである。
異国船打払令と同時に出したことの意味は異国船を迷いなく撃退することで日本人との隔離を目指したと考えられる。
これらのことを考えて解答すると次のようになる。
<解答例>
異国船打払令は異国船を全て撃退することを命じることで日本船が異国船と接触することを防ごうとした政策で,日本人と異国人とを隔離し,キリスト教禁制策を維持することを意図していた。(88字)
第四問
教育勅語は,1890年に発布されたが,その後も時代の変化に応じて何度か新たな教育勅語が模索された。それに関する次の⑴・⑵の文章を読んで,下記の設問A・Bに答えなさい。
⑴ 先帝(孝明天皇)が国を開き,朕が皇統を継ぎ,旧来の悪しき慣習を破り,知識を世界に求め,上下心を一つにして怠らない。ここに開国の国是が確立・一定して,動かすべからざるものとなった。(中略)条約改正の結果として,相手国の臣民が来て,我が統治の下に身を任せる時期もまた目前に迫ってきた。この時にあたり,我が臣民は,相手国の臣民に丁寧・親切に接し,はっきりと大国としての寛容の気風を発揮しなければならない。
『西園寺公望伝』別巻2(大意)
⑵ 従来の教育勅語は,天地の公道を示されしものとして,決して謬〔あやまり〕りにはあらざるも,時勢の推移につれ,国民今後の精神生活の指針たるに適せざるものあるにつき,あらためて平和主義による新日本の建設の根幹となるべき,国民教育の新方針並びに国民の精神生活の新方向を明示し給うごとき詔書をたまわりたきこと。
「教育勅語に関する意見」
設問
A ⑴は,日清戦争後に西園寺公望文部大臣が記した勅語の草稿である。西園寺は,どのような状況を危惧し,それにどう対処しようとしたのか。3行以内で述べなさい。
B ⑵は,1946年3月に来日した米国教育使節団に協力するため,日本政府が設けた教育関係者による委員会が準備した報告書である。しかし新たな勅語は実現することなく,1948年6月には国会で教育勅語の排除および失効確認の決議がなされた。そのようになったのはなぜか。日本国憲法との関連に留意しながら,3行以内で述べなさい。
A:ここで答えなければならないのは教育勅語を作った際に日清戦争後どのような事態を危惧してそれに対してどのような対策を講じたかである。
資料1にある中でどの部分が危惧する可能性があるものであるかをひとつずつ考えていく必要がある。中略後の条約改正とは日英通商航海条約についてである。しかし、これは日本が目指してきた条約改正であり危惧するべきものではないではどこに危惧する要素があるのか?
それを知るためには条約の内容を知る必要がある。条約改正の後の文に我が臣民は,相手国の臣民に丁寧・親切に接しという言葉がある。これがこの問題のキーワードである。つまりこの条約改定以後内地雑居が始まろうとしていた。このときに政府が恐れるものは何かを考えれば良いのである。
そのときに思い出してもらえないのが明治政府は攘夷を放棄して成立したということである。つまり内地雑居に当たって外国人排斥運動が起きることを危惧したと推定することができる。
これらのことをまとめると次のようになる。
<解答例>
内地雑居実現に伴って外国人排斥運動が生じることを危惧した。そこで開国和親の意思を国民に再認識させることでこれらの運動を抑制し、矜持のある振る舞いを国民に求めた。(80文字)
B:ここで問われているのは資料2のような議論があったにもかかわらず何故新たな勅語が発布されることなく排除されたからである。日本国憲法に触れることが求められている。
前提として教育勅は明治天皇が発布したものであり天皇中心の国体観念を養うことを教育の理念として臣民に示していた。つまり資料2での求められていた教育勅語も昭和天皇が発布することとなる。
対して日本国憲法では国民主権が明示され教育基本法では個人の尊厳の尊重、心理と平和を希求する人間の育成を理念としている。
これらのことを踏まえると第一に昭和天皇が国民に向けて発布することは国民主権に反し、さらに第二に教育基本法で教育理念が示されている以上新たに教育勅語は必要ないと判断されたのだ。
<解答例>
教育勅語は天皇中心の国体観念を養うことを天皇が臣民に求めた勅語であり、日本国憲法の国民主権に反すると共に教育基本法ですでに日本国憲法を踏まえた教育理念が示されていたから。(85文字)
まとめ
さてみなさんといてみていかがだったでしょうか?
初めての人はようやくに多くの時間が取られたかもしれません。また要約で的外れな解答を書いてしまったかもしれません。ですが東大日本史はかなり特殊な問題なのでいきなり解くことは難しいと思います。この解説をみるのは最後にしてもらいたいですが教科書で論述の焦点となりそうなところを読みながら解くのはありだと思います。
話を戻して2018年の問題について考えていきます。2018年の問題は全ての大門がやや難から難に分類されるような難しさを持った問題だと私は考えます。
大門1は例年通り最も考えることを要求するものでしたが大門2に関しても高度な言い換え技術が必要でした。第三問は比較的平易な問題でしたが第四問は問題文を読んだだけで推察することはできず一歩踏み込んで考える必要があります。
世界史と違い日本史は一つの問題を捨てて高得点を狙うことは難しいです。
この年の問題は問題文をきちんと読むことの大切さを教えてくれています。急いでるあまり問題文を少し読んで問題を解き始める人がいますがそれは非常にリスキーです。
まず問題文で問われていると思うところに線を引いてきちんと咀嚼してから解きましょう。少し余計に時間がかかりますが勘違いしていらない情報を含めると容赦無く点数が取られていくのでここはきちんとやりましょう。
東大日本史対策は東大日本史を解くことでしかできません。一年一年噛み締めながら大切にといてください。
東大文系、2019年入学で、ポケット予備校では日本史を担当しています!この記事がみなさんの参考になることを願っています!