皆さんこんにちはポケット予備校です。
前回に続き今回は2019年の東大日本史を解説していきたいと思います。
2019年は筆者が東大を受験した年ですがこの年の日本史は粘り強く丁寧に解いた人に点数が与えられる問題でした。
それでは早速問題を解いて解説していきたいと思います。
問題はこちらからご覧ください。(東大HPにとびます)
東大日本史2019
第一問
それでは早速第一問から解いていきたいと思います
1ーA
問われているのは当時の貴族にどのような能力が求められたかである。ここで重要なのはこの時期がどの時期に当たるかである。この問題では容易に時期が想像できるのであまり問題に大きな影響を与えることはないが、時代設定が少し曖昧な問題において一人で早合点してしまうと致命的なミスになりうる。
多くの問題においてそうであるが問題文をそれほど読まずともすぐ解けてしまう単語問題とは違い論述問題、特に東大の論述問題は問題文にヒントが隠されていることも多い。問題文は是非丁寧に問題の核となると思う部分は線を引きながら読んで欲しい。
さて問題について。ここでいう当時とは問題文にあるとおり10世紀から11世紀前半のことです。例え問題文に時代が明記されていなかったとしても資料から読み取ることもできる。資料1にあるように行事や先例が蓄積されたとある。ここからも時代設定が想像できる。
さて上級貴族に求められた能力とは何かである。上級貴族とは一般に3位以上の冠位を持った人のことを指す。つまり大納言以上の地位である。例えこのことを知らなくても資料でいう上卿がおそらくそれに当たるものであることは容易に想像がつく。次に上級貴族に求められた能力であるがこれは一般的に学ぶことはない。なので資料から読み取れることをもとにして考えれば良い。
資料2を見れば問題の核心はほぼ掴めると思う。朝廷の諸行事を主導する上卿とある。つまりこの上卿にどのような資質が求められたかがわかればそれが解答となる。資料3、4を見ると手順を間違えることが愚か、様々な儀式、先例に通じていたものは重用されたとある。これでほぼ解答は固まった。
解答例
儀式や洗礼に通じ、諸行事を滞りなく主導する能力。(24文字)
1ーB
問われているのは当時日記が書かれていた目的である。挙げられている藤原道長、藤原実資という例は上級貴族の例と言えるが問題文には貴族が多く書くようになったとある。つまりここでの対象は上級貴族に限られておらず貴族全体を対象として考えておく必要がある。
では上級貴族と一般的な貴族の違いとは何だろうか?これは極めて単純な話で上級貴族は上卿など行事を主導する立場にある一方で普通の貴族はそれらの行事に参加する立場にあるということである。
次に資料について読解していきたい。
資料一から行事も毎年同じように行われておりそれにより非常に細かいところまで先例が蓄積されていることがわかる。また資料2には位によって担当できる行事が異なったとある。つまり、貴族によって学んでおかなければならない手法や手順は異なっていたということがわかる。
さらに資料4には日記を受け継いで自らも日記をつけていた藤原実資が紹介され彼は先例に通じていたとされている。同じように資料5には後々の参考のために日記をつけろと藤原師輔が残している。
これらのことから日記は様々な行事の記録用に付けられていたことがわかる。貴族の行事は繰り返されるものであるから日記を見れば先例に通じることができるということになる。ここまでで解答は作ることが可能であるがここで立ち止まって資料3について言及していないことに気付いて欲しい。資料3には行事で間違いを犯す藤原顕光が大変愚かであると嘲笑されていることがわかる。ここから先例通りに行事を遂行できないことは愚か者の烙印を押されることにつながることがわかる。これのことを踏まえた上で解答を作成する。
貴族社会が定着し、行事は毎年同じ形で実行された結果先例が蓄積し、先例を違うことは家格を傷つけることにつながり、先例を忠実に実行することが貴族の資質となった。先例を学び粗相を防ぐために貴族は日記をつけ子孫にもそれらを求め託した。(119文字)
第二問
2ーA
まずきっかけとなった出来事であるが自明なことであるが承久の乱である。後鳥羽上皇が挙兵し幕府に敗れたことである。ただしここでは承久の乱という言葉を使うかどうかは個人の自由で良い。
続いて影響である。ここでは朝廷に対する影響力を強めたという文言だけでは弱すぎるので具体的なことを書いてもらいたい。
- 後鳥羽上皇・順徳上皇らを配流,仲恭天皇を廃位,後堀河天皇を擁立
- 院方所領を没収して新しく地頭を補任
- 京都に六波羅探題を新設
幕府が承久の乱後に行ったことは主にこれらのことであるがこれらのことを2行以内に全て入れることは困難なので取捨選択して良い。その後の幕府と朝廷の関係に焦点を当ててとあるので皇位継承権に干渉し朝廷に対して有利に立ったことは記述の中にいれたい。
承久の乱を起こし幕府に敗北した。結果幕府は西国に影響を強め皇位継承権にも干渉するようになり朝廷に対して優位に立った。(58文字)
2ーB
問われているのは,持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣されたのはなぜか。条件として,系図を参考にすること、朝廷の側の事情に留意すること、Aの事件以後の朝廷と幕府の関係に留意することが求められている。
「なぜ」と問われているので、背景・根拠や目的を考えてみたい。
資料2にあるように天皇家が内紛を起こした原因は後嵯峨上皇が次に院政を行うものを決めなかったためである。このことから持明院統と大覚寺統は次の治天の君を巡って対立していたことがわかる。双方が鎌倉に使者を送っているのはAで答えたように幕府が皇位継承権に対して影響を持っていたからであると考えられる。
では皇位継承権に対する影響はどこからきているのか。承久の乱であることは間違いないがメインは戦後処理にある。幕府は院政をしていた後鳥羽上皇を流罪にするとともに仲恭天皇を廃位している。これは幕府が実質的に治天の君の地位を左右する権限を得たこと、もしくは幕府の同意や推戴が必要であるようなったことを示している。
鎌倉幕府はこれらの問題に対して双方から天皇を出すことで解決を図った。いわゆる両統迭立である。受験生としてこの言葉を使いたくなる気持ちはわかるがここではその気持ちを押しとどめて問題を見て欲しい。何のために系図が示されているのかを考えて欲しい。言葉通りに交代に天皇についているのではないことがわかる。
幕府は両統を尊重する政策をとっていたのである。
これらのことを踏まえて解答を作成する。
幕府が皇位継承権、院政担当者決定権を握り、皇位をめぐる対立では双方を尊重する姿勢をとったため双方は皇位継承権で優位を保つために競って幕府に働きかけた。(79文字)
第三問
3ーA
答えなければならないのは幕府が資料2〜4までの政策を撮った背景や意図である。まず幕府がどのような政策を行なったのかを確認しよう。
- 長崎における生糸などの輸入額を制限(1685年)
- 京都の織屋に命令:日本産の生糸も使用すること(1712年)
- 諸国に養蚕や製糸を奨励(1713年)
- 対馬藩に朝鮮人参を取り寄せさせる(1720年)→朝鮮人参の栽培を試みる
- 人参の種を誰でも希望する者は買うように,という触れを出す(1738年)
- 薩摩藩士に教えを受ける(1727年)→サトウキビの栽培を試みる
- 製糖の方法を調査・研究
これらのことから17世紀後半から18世紀前半にかけて幕府が生糸や朝鮮人参、砂糖の国内生産を奨励もしくは目指していたということがわかる。
ではどうしてこのような施策を実行したのか。それらの答えは資料1に書いてある。資料1にあるようにこれらの輸入品に対する支払いは銀や銅で行われていた。また資料2には幕府が輸入額を制限したとある。これらのことから来航する中国船が増加しそれに伴って国内の銀や銅のが減少していたためにこれらの施策を実行したということがわかる。
17世紀以降貿易が活発になる一方金銀産出高は減っていたため輸入品の国産化を進め金銀流出を防ぐことを目的とした。(54文字)
3ーB
問われているのは2〜4の政策の背景として国内のどのような動きがあったかである。それぞれの産物の用途に留意することが求められている。これらの時期、つまり1710年代から30年代は正徳政治から享保の改革までの時期である。つまり倹約が奨励された時期といえる。ここで倹約から来た法律だと考えるのは早計である。
この問題の時代設定は資料一から始まるものであるからそれらの時代についても考える必要がある。先に述べた時代とは違い、7世紀後半貿易が盛んになり始めた元禄時代であり粗悪な元禄金銀が発行されたことに伴って経済が発展した時期である。これらのことを踏まえれば国内の動きとは経済の動きを指していることがわかると思う。
ではどのような消費生活があったのか。ここでは武士だけでなく上層町人や豪農も考慮に入れて答えて欲しい。
次にそれぞれの輸入品の用途である。生糸はわかりやすく高価な絹織物に使われていたということがわかると思う。さらに朝鮮人参は資料から薬種として使われていたことが砂糖は金平糖などの具体的な商品を思い浮かべてもいいが単に菓子類として良い。
経済の発展に伴い社会全体、特に豪農や上層町人の生活水準が向上し、生糸を用いた高級な絹織物、朝鮮人時などの薬種、砂糖を使った菓子類など嗜好品に対する消費が拡大していた。(83文字)
第四問
4ーA
問題のポイントはなぜ第一次世界大戦期に機械工業は活況を享受したのかである。そもそも機械工業とは重工業のうち鉄鋼など金属工業などを抜いたものである。
資料1を見ると第一次大戦が日本の工業界に好影響をもたらしたこと兵器や船舶その他の機械類の発展が最も顕著であったことが書かれている。ここで挙げられている兵器と船舶その他の機械類についてどうして大きな影響を受けたのかを考えていこう。
前提として特需が起こった背景には輸出の急増とヨーロッパからの輸入の断絶がある。輸出の急増は戦争国からの軍需、アジア市場の開拓、特需にわくアメリカへの生糸の輸出が原因で起こった。
軍需の拡大は兵器の生産と結びつけることができるが生糸の輸出増は機械類や船舶と結びつけることができない。ではどうして機械類の特需が起きたのか。
ここで考えなければならないのはヨーロッパからの輸入がなくなったことによって断絶した商品である。ヨーロッパからは化学品だけでなく生糸を生産する機械なども輸入されていた。それらのことを踏まえるとこれらの機械の国内生産が進んだということを想像できて欲しい。また船舶の急増は輸出の増大に絡めて欲しい。
大戦の勃発により軍需品や綿製品などの輸出が急増する一方でヨーロッパから機械類の輸入が減少したため,兵器や船舶の生産が盛んになり,工場設備の拡張に応じて機械類の国内生産も増大した。(90字)
4ーB
問われているのはサンフランシスコ平和条約発行直後に生じた機械工業の活況の原因である。
まず最初にサンフランシスコ平和条約が発行された時期を確認しよう。サンフランシスコ平和条約が発行下のは1953年である。また資料も1953年とあるためこれらはどちらも朝鮮戦争の最中の事象、資料であることがわかる。ここからすぐに朝鮮戦争勃発によるアメリカ軍の需要による特需が思い浮かぶだろう。だか早計にそれらの情報で解答を立てるのは危うい。
東大の問題は資料がある時には必ず資料を読んでとかなければならない。資料は解法のヒントとなりうると共に設問作成者が参考にしろと訴えかけているものだからである。
資料2には電源開発に関連した機械類、小型車、スクーター、蛍光灯、大型タンカー、繊維機械,ミシン,自転車,カメラ,双眼鏡など比較的軽機械に類するものが挙げられている。
ここで注目して欲しいのは兵器が無いことそれから小型車と限定していることである。このことからこの時期の特需は単なる軍需によるものではなかったことが分かる。ここからわかるように難しくはなるが特需景気に全く触れない解答も作成可能なのである。少なくともこの資料に関する活況は直接特需によるものではないということができるのである。
次に注目するのは電源開発に関連した機械類という項目である。ここでは水力発電を想起してもらいたい。水力発電が想起できなくても電気関連の記述は入れたい。
さらに注目すべきはタンカーである。タンカーを通して想起して欲しいのが石油である。中東で石油が大量に発見されこれらが欧米の多国籍企業によって安価な石油を供給され日本経済が復活にも多大な影響を与えたことを思い出してもらいたい。
最後に新しい機械について考察していく。ここで言う新しい機械とは政府の保護策を背景に成長していた鉄鋼、造船、自動車である。これらの事業者はアメリカの最先端の技術を取り入れることで技術革新と整備拡張が進み高度成長の下地が整い始めていた時期なのである。
これらの事を踏まえて回答を作成する。
合理化・技術革新が進んで設備が更新されると共に,電力の安定供給をめざして水力発電所の建設が進み,中東での油田開発を背景に石油の貿易取引が増大し,国内外で個人消費が拡大していた。(90字)
まとめ
2019年の東大日本史を解説してきた。この年は筆者自身が受けた年の問題であるのでより正確な講評をすることができるのではないかと考える。
この年の東大日本史は間違いなく易化したと私は考えている。実際私は試験中2018年などと比べて非常に解きやすい問題だと感じた。しかし、東大日本史の難しいところは完全な易化と言うものはないと言うことである。この年の問題はもちろん解きやすい問題が多い。知識として知らないと言うことはあまり多くないであろう。だがこのような時こそ点数に差がでが出るとも考えられる。
自分の知識で答えられると考えると焦って問題文や資料をきちんと読むことなく自分の知識のみで答えてしまいがちなのである。そんなことをすれば大しっぺ返しを喰らうことになる。東大日本史においてただ知識を求める問題は皆無だと思って欲しい。
詰まるところ東大日本史は最後までねちっこく細部に拘って1文字1文字を大事にしたものが制する問題である。受験生の皆さんにはこの心構えを覚えていて欲しい。
東大文系、2019年入学で、ポケット予備校では日本史を担当しています!この記事がみなさんの参考になることを願っています!